ごあいさつ
私は出生から中学1年生までを、油小路三条上るで育ちました。
明倫小学校を卒業後、城巽中学校に通い、放課後は三条商店街で本屋の大野文省堂さんや京都模型さんに通ったり、三条大宮公園で一輪車やミニ四駆に夢中になったりして過ごしました。娘も同じ公園で一輪車を覚え、親子二代の思い出の場所となっています。
80年代、父に連れられて甲子園の帰りに立ち寄った大宮駅前の屋台ラーメンは、子どもながらに“大人の仲間入り”をしたような忘れられない味でした。
そんな思い出深いこの地で開院することは、私にとって長年の「夢」であり、その夢を今、形にしようとしています。
父はかつて伏見の旧国立京都病院(現・京都医療センター)に勤務し、その後伏見稲荷で開業していましたが、肺癌で他界し、後輩の先生に医院を継承していただきました。
父を67歳で見送り、祖母を97歳で見送った経験は、時を経て私の内に深く刻まれ、医師としての糧となっています。
私は循環器と内科救急を基盤とし、西伊豆(静岡県)での地域医療、京都や奈良での訪問診療を経験してきました。
さらに現在も精神科訪問クリニックに勤務し、利用者さんとの関わりを通じて、それまで自分の中に無意識に存在していた“壁”のようなものが取り払われ、人は皆それぞれ違っていても同じ仲間であるという感覚を育ててもらいました。
これまでの経験をすべて活かし、地域に根差し、皆さまの健康と生活に寄り添える医療を提供してまいります。
岡本医院院長 岡本広太郎
出身は?
「昭和50年 京都市中京区生まれです」
出身大学はどこですか?
兵庫医科大学です、いい仲間に出逢いました。
好きなことは?何をして遊んでいますか?
旅が好きです。
自然に近い環境で過ごすこと、キャンプや車中泊。
青春はスケートボードに明け暮れていました。
46歳頃からコーヒーを飲める様になり世界が拡がりました。お酒は好きな方かな?
音楽は聴かれますか?
なんでも聴きます。特にカリブ海に浮かぶJAMAICAの音楽Reggae musicが好きです。
ピアノではピアノソナタ第14番「月光」 (Pat Brennenのパートで流れていてから)。時々Nina Simoneの「I wish I knew how…」がふと聴きたくなります。
これからやってみたいことはありますか?
楽器を習うことです。
医院でやってみたいことがあるとかないとか?
医院の空き時間や休院日に「音楽会」や「お坊さんに話してもらう会」「手話の勉強会」「フリーマーケット(既に7月に一度行い、盛況で楽しかったです。)」「一つのテーマについて話す会」「黙っている会」などをやってみたいです。
お子さんの医院体験なんかもリクエストがあればいいですね。本当はスケボーパークを併設が夢なんですがそれは今は夢です。
どのような医療をされるのですか?
<父の看取り>と<祖母の看取り>が大きな分岐点であったのでその話をします。
循環器内科で開業していた父の医院を継ぐべく、24時間365日夏休み以外はPHSのスイッチを切れない手を緩めない循環器のチームで後期研修をしていた5年目です。
梅田の茶屋町で大忘年会の二次会に向かって歩いている時に父から電話があり。
「お父さんな●●●●なったわ。あと●年ぐらいかもしれん。」。
「これから自分が担当するかもしれない患者さんには他の先生も存在するけれど、ひとりしかいないお父さんになるべく会う日々にしよう。」と考え病院を大阪から京都に移り、市内の病院で勤務させていただきました。
ある時病室で父から「自分の為に京都に居てくれるのは本当に嬉しかった。
でもなこれからのお前の人生の方が長い。
だから先が短い自分の為に京都にこだわらず広い世界を見てきてほしい。」と言われました。
そこから視野を全国に向け生き方探しをした時に「同志募集」という居酒屋かと思う文面に惹かれたのが第二の故郷となる西伊豆町(静岡県)において「僻地だけれど最先端」を掲げている西伊豆病院(現:健育会西伊豆病院)でした。
西伊豆病院では、外来で担当した人が入院となったら自分が入院主治医となる、そして退院してしばらく在宅となったら在宅の主治医も自分が担当となる。
一人の人を繋がって診させてもらえた経験でした。
また床ずれの治療を行いに訪問にコツコツ行ったり。子供さんの急病もそこで経験させてもらいました。
そこでプライマリーケアを経験し、子供の幼稚園入園を機に関西に帰ってきました。
数年後、97歳の祖母を【老衰】として看取る景色を見せてもらいました。
大正生まれの祖母は施設に入って穏やかな生活をしていました。僕の母と叔母さん、一人の従姉妹が丁寧にそして笑いありながらの介護をしてくれていました。
ある時母から「おばあちゃんなぁ、ご飯が食べへんくならはった。多分脱水やと思う。去年は点滴してもらって持ち直さはったし今回も点滴したら復活しはるかもしれんけど、今回は話し合って点滴してもらわへんし。おばあちゃんの人生よかったやろ?今のおばあちゃん穏やかやろ?」「穏やかにいかせてあげたいし、あんたなんも言わんといてな。」と言われました。「たった点滴。試せる事があるのに。」と思いましたが言葉を飲み込みました。
そこから祖母が息を引き取る4日と半日間の中で何度か「点滴したらおばあちゃん復活…」と出そうになりましたがそれは祖母に対する「思いやり」ではなく【自分を主人公とした】「祖母を失いたくない」という【自分の気持ちを尊重した】ものです。
祖母と向き合って見てきた母たちは【祖母本人を主人公とし、祖母の人生とその終え方を再優先にした方針】でした。
既に意識がない祖母でした。数日経過した時、仕事を終えて病院に祖母に会いに行くと。
母だったかに「見ときや」と言われました。祖母の耳元で携帯電話から祖母が好きだった「炭坑節」を流すと我々の呼びかけに反応がない様に見える祖母が手を胸元まで持っていき、拍子を取るのです。 もー、まいったまいった。 運もあったと思いますが、いい看取りを見せてもらいました。
そんな僕はどんな医療をするのでしょうか、楽しみです。